竹すずめ

眠れば「悪夢」が待っていて、起きれば「地獄」が待っている。

それがここ、人間が生きる世界!

一瞬の中に宿る永遠がこんなにも山程溢れているというのに。

地球という惑星は、見渡す限りどこの惑星よりも素晴らしいというのに。

「仕方がない」と定義しなくては、正気ではないことばかりで溢れている。

どうして彼らには「何も」見えないのだろう。

どうして彼女らは「それでいい」と飲み込めるのだろう。

どうしてそう考えるのだろう。どうしてこう感じるのだろう。

そうして行動するのだろう。そうして運ばれていくのだろう。

 

納得の存在する閃きに溢れた世界が私は欲しい。何よりも、命よりも先に。

 

痛みも哀しみも孤独も不安も嘆きも只々、長すぎて短いたった一度きりの「人生」と名付けられた空間の中で、懸命に小さな僅かな虫の音程の呼吸を脳を携えた状態で繰り返し繰り返し、過ごしているだけで充分だと言わざる負えない。

それが「私」が見ている人間の世界。

山程存在する生物、人間が綺麗事ばかりを吐き、真実には否定的でいて尚且、自身の責任どころか他人の人生で自分を形成し「自分の創った」なんてごもっともな「当たり前」を掲げ、外部を「正義中毒」と称し否定的なプロパガンダを孕みながら、それには見えない出で立ちで中毒を患い「時代」を生きている。


全く、どこを見渡しても自己の正当化と確率、中身の言葉の伴わない、もう、ここまでくると言葉なんて無意味な程でこの拙い文章ですら読む気力を損なう程酷い世界だ。

健全に生きるための思考がない、全く希望など存在しないこの世界において「生まれて良かった」と心から心底思えるとしたなら「創られた世界」の中だけとされることもまた創られているというのだから、本当に納得する答えは「私の見ている世界」でしかないことがまた更に「生命」という仕組みを阻害する。

古いマンションに引っ越して今日で三週間と少し、脳の傷(仮)の酷さを考慮すれば上出来で宮城県仙台市に越してきておよそ5年。正確な数字は都合により現在は不明、調べるつもりもない、越してきて何年と何ヶ月と何日かという正解な数字が必要な場面に行くつもりもないし、この情報を正確に伝えなくてはならない場面は、現在自身の想定する何日かの範囲内には存在しない。ここに文章を残すことによって何らかの負荷(偶然ではない人工的なもの)で変更される場合は除く。ここが日本で、わたしは三十代後半で雌で社会的地位も資産も価値もない肉の破片。無駄な細胞、持て余す感覚、消えない痛み。

体調がその他の人間と接触することに何らかの障害が無い程度まで持って行けた場合のみ、この肉体を時間で売りに行く。現在のわたしが生きていく為に唯一出来る商いだ。

この欲望しかない、孤独を紛らさせたい人間しかいない、この商いでしか方法を知らない他国に比べれば非常に「安心・安全」なこの商い。しかし、リスクが高く危険なものだと多くの人は言葉にする。それで、充分に楽しむ癖に。
この堕落した商いは私の様な生物からすると心地が良い。体調も考慮出来る、長時間他人と接触しなくて済む、頂ける金が良い。もっと若い頃からやっていれば良かったと最近は切に思う。こんな人間に対して多くの人は「老後は?」「スキルは?」様々な当たり前の事柄で不安を煽ってくる。仕事が続かない人間=、転職し過ぎの人間=、夜の世界の人間=、中身なんて言葉を持ってしても尚、例えば目視という安易な行為を持ってしても尚、匂いを嗅いでも尚、口に含んでも尚、何十年を費やしても尚、解りきった言葉と認識と統計で医者が例外に対して利益がなくては、または余程、好奇心を失わず」様々なケースを何十年も学ばなくては診断できない症例並にやる気が起きないではないか?

もっと専門的に書いた方が伝わるだろうか?専門用語の並ぶ参考書を手に取るのは馬鹿以外ではなくてはならないこの世界で?
益々、言葉というツールを考慮した場合、益々全く違うことが発生する。

その、理由は唯一つ!
「アンタの脳を介しているからさ」


新しく越した古いマンションは、およそ私の戸籍上の年齢と同じでバブル期の日本で次々に同じシリーズが建設されていった。住宅街の至るところにこのマンションが今も昔の匂いを残しながら建っている。バブルを知らない私だが様々な年配が口を揃えて言うのだから余程日本は裕福だったのだろう。でも、思う。その時期に建設されたマンションは今、古い物件でその時は最新だったとされる設備が今じゃ「古い」からと不便な機能を携えている。様々な技術が専門家の手によって進化していた証だろう。建築に纏わる法の定めが変わり、生活習慣が変わり、自然環境が変わる。
変わらないのはいつも、縄文時代から戦国時代から弥生時代から何時代からでもいい!

人間のみである。備えるものが異なれど割合を見れば同じなのだ。
家、庭、地域、県、国、世界、宇宙。
権力、金、犯罪、性別、年齢、思想、宗教。衣類と同じで過去の歴史の断片が安価となり普及し回って回って基本の部位は除かれ「時代」なんてごもっともな理由で「今」を気取る。

命は消えて、生まれた場合必ず「死」が訪れる。当たり前だというのに、人は「死」というものを杜撰に扱うというのに人にそれをあてがい嫌悪する。否定の理由にして、自己の知性を保つ。

今では時代遅れな過去の精神技術の見窄らしい近代的ではないマンションで、お風呂場の汚れた換気扇とその時代の正しく素晴らしい技術が齎した水回りの設計で現代に訪れているカビの胞子との戦いは神経を参らせるものだが、私は満足している。
夜もゆっくり眠った試しなど無いが、このように技術についてAppleコンピュータに夢中だった途中に判断した「キリがない」という答えの正しさを痛感出来て思い出のログがその日の天候を環境をはっきりと思い出せるし、ゆっくり寝た試しがこの世界で生きている以上、肉体が余りに悲鳴を上げた時くらいだし、中絶するさいに使われた麻酔薬を摂取した時位なものなので、その次代の流行が残した出窓という風の流れる道の地図の幸福さを引き合いに出して満足出来る自分の意識に感謝しよう。

 

しかし、カビ臭い。玄関、トイレ、お風呂場、脱衣所、そして、大半を過ごす部屋は酔うほどのいぐさの匂い、そして木、建物に染み付いた他人の残した様々な匂い。

プロのクリーニング屋が入ってクリーニングの仕事をしたとされたこの部屋は一見きれいなのだ。クロスが張り替えられ錆はパテで上塗りされ一見掃除が行き届いている。
が、私のような性質を持つとトイレのタンクの水を抜き中を根本的汚れの理由を清掃しないことには清掃とは言えないと自分でやり始める。クリーニング代として請求される金額が一ヶ月の家賃の三分の一だったとしても。これは「わからないだろう」や「知らないだろう」とする相手に対して行う人間の行動の現れのひとつだ。

=の位置の浅はかさはこのように我々の全く想像し得ない場所に「当たり前」として「そういうもの」として滲んでくる。が、人はそこまで山程のカテゴリを引き合いに出せない。例えば、特定の人間との関係の構築、ジャンル訳、物事の捉え方、全てにおいて「〜ページまで」としなくてはならないのである。そこには「信頼」「利害関係」「育ち」「性質」「願望」「偶然」すべてを考慮した場合の答えである。

 

自分はされないと安心出来る当たり前の人間たちの罪悪感の無さを「わたし」は、よく知っていると私はいつも思う。

 

カビの様々な匂いが時間が経過するにつれて、掃除を山程するにつれて自分の耐えられる匂いになってくる。しかし、私はそんな時に自分の鼻を他人の鼻にする。内臓が傷んでいる時の強度のストレスに晒され続けた時の唾液の減少と胃腸の痛み具合や入浴に伴う体力の低下による悪臭は置いておいての状態だ。すると、取れない時間の匂いがこびりついている事実を直視することが出来る。冷静に、仕方ないという方程式をきちんと持って。

科学的な香りを諦めた。この経過の匂い、時間の匂いに対応できるのは、火と煙と酸素、灰。

好きな香りのデュヒューザーではなく、大好きなファブリーズの技術ではなく、わたしは「ENGIMONO」の香を炊いた。昔、アジアに嵌った時に部屋で焚いていたチャンダンやデニムのお香もいいかもと思っていたが、もう少し現代をブレンドしたい気分だったところに見つけた「ENGIMONO」インセンス、スティックタイプ「竹すずめ」。

他にもいくつか吟味した中で他のアイテムには専用の台が付属していたのでこれにも付属しているだろうと思っていたらなかった。一輪挿しの花瓶もお気に入りの出窓に飾ろうと用意していたのだが湿度のことを考慮して飾りにしていたもので代用してみたが酸素が足りず鎮火してしまい上手く程よく焚けなかったので、トイレの修復用に購入したパテで台を作り代用した。線香の長さ、煙の量、部屋の風の入り、わたしの部屋の前まで匂いがするようで申し訳ないと思うが隣の部屋の中にまでは侵入しないし、マンションのどこかでカレーを作っている日もあるという光景と同じ量なので今夜は良しとしてもらおう。苦手だったらごめんなさい。ベランダ側では焚きません。

世の中には私達が目にしていないだけで、山程存在する。様々が、今日も、明日も、昨日にも。そのことが途方もなく反対に私をひとりにする。
でも必ずその外側にはいつでも「わたし」が在って、「大丈夫」という状態にして「私」をいたぶる。

「それがお前の罪だ」なんて言ってね?

今日会った友達は孤独を嘆いているけれど、自分で孤独を招いていて。
私には解らない。性質は知れども、相談に乗って相談者よりその内容を考え続けて見つけた答えを持っていったなら当の本人はすっかりそれを忘れているという時の記憶を思い出す。

いくら歳を重ねても、いくら友を、下々を備えていようと、山程立派なものに触れてきていようと、人間というのは全く「理」さえ「都合」でしかないと知れば知るほど。

特技も大事なものも、好きも嫌いさえ、何も共有などしたくなど無い。

SNSが当たり前の時代にも関わらず。共有されればされるほど、ぶっ壊されて、汚くって野蛮なだらしのないものにされる。

しまいにはいいとこだけ手柄をとって、悪いだけを押し付けられて、気付け無い癖に、無責任に、気付け無い場所でわたしはひどい目に合う。

あんたの行動の枝分かれであんたの知らないあんたの断片が、他と交わって、交わって、解る人にだけ届くんだ。

これを解らない人間は「関係のない」「とばっちり」なんて名称を付けてね!


宇宙を連想させる音楽っておかしくない?

「ENGIMONO」最近になってやっとわたしは国産が好きになれました。

伝えたかったのはこのことです。